一刀両断ミニコラム

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《2011.02.07》

八百長問題の本質とは

 「そんなものはない」と言い続けて来た大相撲八百長問題に遂に決着がついた。つまり恒常的に行われていたということだ。これまで何度も記事で疑惑を取上げ、訴訟では敗北してきた週刊誌は一斉に反撃を開始するだろう。仮に相撲協会が「これでウミは出し切った」と言ったところで今や誰も信じないに違いない。

 ところでそれでは相撲協会が本気になれば八百長は無くなるのだろうか。メディアの記事などを見ていると、どうもそういう方向に議論は進んでいないように見える。そうした記事の主題は、不正行為に対する国民感情、即ち一億総「正義の味方」化にあるようなのだ。八百長はいけない事には違いないが、本来は明るみに出ないように行われるものであろう。従って、そもそも「根絶する」という目標そのものが無意味なのである。光があれば必ず影もあるのであって、それを単純に「悪だ」と決めつけて糾弾するのは程度の低い知能レベルに他ならない。

 無論、だから八百長くらい大目に見ろ、などと言っている訳ではない。根絶する事を求めるのが間違いなのであって、有りうるという前提で話を進め、可能な限りチェックを行い、見つかった場合には厳罰を処す、とでもするのが順当なのだ。それを存在そのものを否定しようとするから話が矛盾し、自己呪縛に陥ることになる。

 その自己呪縛が端的に表れたのが、今回の相撲協会による興行全面自粛であろう。そんな事をしたら全力士が八百長をやってると言ってるようなものではないか。ここにも日本に良くある「連帯責任」という訳の分からない呪縛がある。これで一番バカを見るのは正直に相撲を取ってきた力士だろう。魁皇などは記録がかかっているのだが、それがどうなるかも不透明になった。ファン離れも加速するに違いない。そもそも相撲協会がこうやってひたすら低姿勢になる背景に透けて見えるのは、何とかして公益法人と国技というブランドを守りたいという切実な願望であって、本気で八百長を根絶するという姿勢ではない。ひたすら「反省しております」「もうしません」と言い続けて同情を誘うという良くあるアレだ。だが相撲など江戸時代には場末のイベントみたいな形で始まったのであって、それを国技などと持ち上げるからおかしな方向に行ったとも言える。本気で現状に危機感を抱いているなら、こうした看板を一旦下ろして出直すくらいの覚悟が必要だろうが、協会の動きを見ているととてもそうした風には見えない。

 ところでこの問題について、池田信夫氏がブログで面白い事を書いている。八百長とは日本社会の伝統そのものだというのである(こちら)。法則を簡単に述べると、要するに馴れ合いをして互いに貸し借りを作った方が仲間から離脱して真剣に競争をするよりもローコストであれば、基本原則は八百長になるというものだ。確かにいわゆる談合や、記者クラブなどの「団結」を見ているとそのとおりである。これを成立しなくするには、離脱する方がローコストになれば良い。その為に例えば不正に得た利益の3倍の罰金を課すというように、様々な罰則が設けられているのが欧米の仕組みである。日本はこれが甘いのは指摘するまでもあるまい。

 で、最初の総「正義の味方」化に戻る。要するに誰もが自分も馴れ合いでうまい事をやってる、と頭のどこかで認識しているのである。それがあるからこそ、どこかで誰かが不正をやったとバレるとよってたかって糾弾をする。これはそうする事によって相対的に自分が正しい事をしている人間なのだと思えるからであって(奴らよりはマシだ、うまくやってるという自我であり、後ろめたさの裏返しでもある)、だからこそ理屈抜きに相手が謝罪し尽くすまで叩き続けるのだ。でないなら、もっと合理的に判断する意見が出て来て良い筈。それが無い事がこの仮説を紛う事なく証明している。

 ところでこれはまさしく、どうでもいいような理屈を付けて相手をコキ下ろし、相対的に自分を高く見せるイジメや差別と同じ構造である。似た例としてあげると、小沢問題も「説明責任を果たしていない」とメディアや御用評論家らがいうのは要するに「自分らの求めている答、或いは態度が見られない」というだけであって(つまり、私が悪うございましたと頭を下げろという訳だ)単刀直入に言えば集団リンチに他ならない。本欄では何度も書いて来た事だが、小沢氏は数え切れない程に記者会見を開いて事実関係を説明している。それをメディアが一切報じて来なかっただけだ。

 さて、携帯の中を覗いたのは、通信の秘密を侵したのではないか、という解釈についても触れておきたい。ここで注意しなくてはいけないのは、そもそもがこの携帯は野球賭博の証拠物件として押収され、その中から副次的に得られた情報である点である。感覚としては「とんだ外道を釣り上げたぞ」というところであろう。また、その情報はいきなり公開された訳でもなく、警察から文科省に伝えられ、それがマスコミによってスクープされた(リークかもしれないが)という経緯がある。それとプライバシーに関しては、その問題の公共性に鑑みて制限が緩められてしかるべきという判例もあるのだそうで、今回のように税制面で優遇されている公益法人の構成員が起こした問題であれば、不正情報がプライバシーであり、侵さざるべき情報であるとは言い難いのではないだろうか。

 ここまで書いていたら、相撲協会が力士に携帯の提出を求めたところ、「無くした」とか「壊れた」とか「買い換えた」と言って提出しない力士が続出しているというニュースが入ってきた。この点からも八百長が普遍的に行われているらしいと見当が付く。根絶しようという綺麗事が如何に空虚なものか、伺う事ができよう。

 話をもどし、日本は島国であり、ムラ社会であって欧米のような弱肉強食とは違うのだ、という理屈があるが確かにそれにも一理はある。だが、国際社会になって世界を情報が巡り、関税が撤廃されていくとそうとばかりも言ってはおれない。無知蒙昧な菅政権はTPPを推進しようとしているが、これが成立した暁には日本は様々な面で米国式を受入れる事になる。メディアは農産物の話ばかり書くがそんなのは些細な問題だ。TPPでは企業活動、弁護士など社会のあらゆる分野で米国式を求められる。例えば米国の弁護士は日本で活動出来るが、日本の弁護士は米国式の免許を持っていないから米国では仕事が出来ない。企業活動も同様だ。米国のファンド企業による買収や株式支配など日常茶飯事となるだろう。言わば究極の「年次改革要望書」である。こんな条約を結んだら日本はあっという間に植民地化していくだろうが、そんな事を今の政権が計算しているとは到底思えない。こうした動きに対抗するには馴れ合いと八百長こそがベストと思っている限り駄目であって、今のままではいいようにカモにされてしまうだろう。

 最後に脱線ついでに、週刊ポスト 2.18号の119頁あたりに面白い話が出ていたので紹介しておこう。かつて日本は「黄金の国ジパング」と呼ばれていた事は誰もが知っているだろう。実際には屋根が全部金で出来てるなんてな事はなかったのだが、それでも幕末当時、日本は世界に冠たる金保有国だったのである。それは大判小判などのいわゆる大型金貨が多く存在していた事でも分かる。どこの国でもあんなに大きな「金貨」を流通させていた所はない。ところが、開国に当たって当時の幕府は欧米の言うがままの条件を飲み、いわゆる不平等条約を結んでしまう。その中には不平等な為替レートも含まれていた。つまり、外国から見ると日本の金の値段は世界標準の1/4程度に見える事になってしまった。当然、世界から金を求めて「交換しに」人が殺到した。日本の金はこうして多くが失われ、明治政府は財政難に喘ぎながら国造りを進める事となってしまう。これが記事の概要だが、これと上記TPPの話を合わせて見ると何か思い当たらないだろうか。そう、菅政権の言う「第3の開国」というフレーズである。

《2011.01.21》

続・まねくべからず

 昨日の本欄に続き、今度は最高裁が録画代行に対しても違法の判断を下した件について考える。要するに業者が介在して日本の放送を海外に送る事はまかりならぬ、という事である。海外在住の日本人が日本の放送を見たいと思えば、誰か知り合いに頼むしか無くなった訳だ。海外に居る奴など知った事か、という放送界の意識が見える。

 ところで、著作権というのは親告罪である。つまり権利保有者が文句を言わなければ、違法は成立しない。ということは放送局が文句を言ったから裁判になったのである。ところで何故、文句を言ったのだろうか。文句を言う以上、実害があるはずであろう。

 しかしここで冷静に考えてみると、こうした個人から個人への伝送が起こす実害というものが殆ど見当たらない事に気づく。少なくともスポンサーにとっては自社のCMが世界に向けて流れるんだから、文句はない筈だ。番組そのものが流れたとしても、関連商品の売れ行きが落ちる訳もない。あるとしたら量産されるバカ番組が世界に流れて恥をかく位だろうが、恥を知ってる位なら最初っからそんな番組は作るまい。

 つまり、メディア側にとって何が問題なのかというと、自分らのコンテンツが目の届かない所に流れるのが面白くない、というだけとしか考えられないのである。個人が個人でやる事は法律では止めようがないが、業者が絡むのなら押さえてやれ、というこれを狭い了見とかいうのは簡単だが、これは実はコンテンツに絡む業界の全てに見られる共通の了見である。例えば、音楽配信で真っ先に文句を並べたのはCDを販売する業界であった。映像情報、つまりDVDでも同じく販売関係の業界であった。本来の意味での著作権を持っている作曲家、演奏者、或いは映像作家などはそれ程大きな声を上げている訳ではない。坂本龍一など一流アーティストには賛意を表する人も珍しくないほどだ。無論、中には反対論を上げている作家もいるが、大抵は才能が涸れて名声だけで食っているような類である。

 さて、日本語で著作権と言うが、英語では Copyright、即ち複製権である。グーテンベルクが印刷ビジネスを発明した事によって生まれた概念と言われる。それまで書籍というのは作るのに大変手間と金のかかるものであった。今で言うならスイスの職人が手作りで完成させる数千万も1億円もする時計のようなものである。しかし、印刷術の登場で書籍の大量生産(複製)が可能となった。同じ仕掛けはやがてレコードとなり、CDとなり、DVDとなって文字通り大量に生産して大量に販売するビジネスモデルとして発展した。

 これは言い換えると、輪転機やCDプレス機を持っている業界が、大量にコンテンツを複製し、それを流通させ、しかもそれを独占する事で儲けてきたのだと言うことができる。ところがインターネットの出現、パソコンなどの発展によってこうした独占が危うくなってきた。書籍はPDFなどの電子出版になり、音楽はCDからmp3となり、今ではDVDどころかブルーレイ品質の動画でもmp4などに出来、そうした物を個人が制作・編集して販売する事が可能となってきている。

 これは実は真の意味での著作者にとっては、福音という一面を持つ。例えば書籍の印税率は10%かそれ以下だ。言い換えると、出版社が9割をピンハネしているのと同じである。ところが自前で出版出来るとなれば理論的には全売上げが全部自分の物となる可能性が出て来たのだ。こうなると今までコンテンツの流れを独占して暴利を貪ってきた業界はたまったものではない。例えば新規に参入してきたGoogleやAmazonの電子書籍では、著者の取り分を70%程度に定めている。これに対して日本の出版界が提唱している電子書籍出版モデルでの著者の取り分が相変わらず10%か15%程度になっているのは、この暴利を原資とする高給優遇体質から脱皮出来ないからにに他ならない。どんなに無能でも40歳で年収1200万と言われたのはテレビ業界だが、出版界もそれに劣らぬ位の賃金体系だと言われる。ここに日本の既得権益の持つ自己改革の限界を見て取れるのである。

 限界とは何かというと、要するに「壺に手を突っこんだサル」のレベルだということだ。ご存じと思うが、壺の中の豆を取ろうとして手を入れ、豆を握ったら壺の口から手が抜けなくなるという逸話である。一旦、握っている手を離せば壺の中の全ての豆を手に入れられるのに、掴んだ物を放すのが嫌で手が抜けないともがいている構図。これと同じで今まで掴んでいたコンテンツの流れを何が何でも放さないというこの狭量さこそ、まさに日本のメディアなどの既得権益が陥っている対応の限界だと考えれば、この裁判の真の意味も分かって来るだろう。

 ところが一旦、発想の方向を変えれば市場が広がって、より多くの実入りを得られる。そういう転換をして大成功を収めた代表例は、アップルの iPod と iTunes Music Store だ。これが出現した頃の日本製携帯音楽プレーヤは、コンテンツをガチガチにプロテクトで固める事しか考えず、しかも販売価格はCDと同じという水準を崩さなかった。それで市場が広がる訳もなく、携帯プレーヤ向けに販売した分CDが売れなくなっただけ。それを根本的に変えたのがアップルのシステムだったのは改めて言うまでもない。結局、日本の音楽コンテンツ配布ビジネスは、携帯電話向けの着メロ路線というせせっこましい所に逃げ込み、あと数年で消滅する運命にある。

 ここで記者クラブと独立系ジャーナリストとのやりとりを改めて見ると、記者クラブ側の言う事は「決まっているから」に終始するがそれも同じ構図だ。これこそ要するに抱え込んでいる物を放してしまったら、自分は沈没するという脅迫概念に他ならない。そういう脅迫概念にとらわれるなど、おのれの無能を無意識のうちに自覚していなければ起きる筈などない。それは実は現場の記者たちに起きているのではなく、無能でありながら高給をもらい、組織の上層部に溜まっている管理職連中に端を発しているのである。検察が取調べの完全記録に拒絶反応を見せるのも、原点は同じだろう。

 しかしながら、それを伝える筈のメディアがそういう体質だから、国民はそれを知らされない。そしてそこにネットメディアが斬り込んでいるという構図も、上に述べてきた著作権絡みと同じだ。しかしながら音楽業界はアップルによって揺さぶられたが、放送や出版には全く新規参入も業界再編も無く、そうした既得権益に居座る管理職群は決済のハンコも握っているので自浄作用が起きない。

 21日に放送していたニュースの深層、ゲストの冨山和彦氏(経営共創基盤代表取締役CEO)が丁度、面白い事を言っていた。企業経営者の教訓として「高学歴優等生の人材を揃えるな」というのである。優秀な人材は根本的な対策を講じるよりも、とりあえず平均的な合格点を目指すというのがそのココロだ。例えば、JALを例に挙げ、本来なら余剰資産を大胆に削らなければ根本的な立て直しは出来ないのに、優等生型人材はそこに踏み出せず、不作為を繰返して各部門の顔を立てる事ばかり考え、或いは詭弁で誤魔化すような対策ばかりを取ってしまい、結局は戻るタイミングを逃して轟沈に至ったというのである。何だか戦前の大本営みたいだが、今の日本の巨大権益にも同じ事が言えるのではあるまいか。

 冨山氏はこれを解消出来るとしたら、トップの英断しか無いと言う。なんだかますます先行きが暗くなった。メディア界を牛耳るトップと言ったら、昨日も触れたあの「インターネットなどという物は見てはならん」と訓示するあの男だからである。国家権力を陰で操るこうした権益は、自分らに都合の良い法律を作り、それに基づいて裁判をさせる。その構図こそ、この時代錯誤的判決の裏に隠れた真実である。


《2011.01.20》

まねくべからず

 地裁、高裁で合法判断の出ていた「まねきTV」サービスに対して、最高裁が逆転有罪の判断を示した。まねきTVとは海外在住の日本人から依頼を受け、受信機を設置、その出力をネット経由で契約者個人に送るサービスである。契約者は仕事の関係か何かで海外赴任している人で、日本の放送を見たいという需要に応えたというビジネスで装置は依頼者が購入、業者に預ける形にして業者は手数料だけを受取っていた。

 今回、これを違法とした大義名分は言うまでもなく放送界の持つ権利の侵害である。判決では送信可能化権を侵害したとしている。個人的な考え方では放送免許にサービスエリアの指定があり、それも侵害するような気がするがそういう辺りを追求するとインターネットで情報を転送する事が放送に入るかどうかとか、ややこしい話になるので避けたのではないかという気もする。本件に絡みそうだが、昨年11月末に成立した放送法改正案では、ネットのストリーミングを放送の範疇に含めるような条文が最初っから堂々と書かれているので、それが実効となったら更に息苦しくなる事が考えられよう。

 ところで今回のこのサービスは、業者が手数料を取って行ったから放送可能化権を侵害したという事らしく、例えば既に発売されているSlingBoxの場合は個人が自前で設置した装置を使って、別の場所へ転送するのだから問題はないという事になるのだろうか。しかしこのSlingBoxを使うと国内はおろか外国ででも「受信」出来てしまう筈だからそのうち何か言い出すかもしれない。まあいずれにしろ、この判決が情報後進国の日本を際立たせるせこい政策を象徴する物であるのは確かだろう。光ファイバを張り巡らせるのはいいが、流せる情報は政府や既存メディアお仕着せの物ばかりになりかねないからだ。

 世界のメディア界では今ではインターネットを利用するのが当り前になっている。ツイッターやFACEBOOKなどとの連携はおろか、放送局でも必要なら世界に向けてストリーミングでコンテンツを流す時代だ。日本ではRadikoがあっても関東地方で関西の放送を聞く事すら出来ない。そのRadikoの実現だけでも各種抵抗があり、大変な手間と時間の末に「試験的」に開始する事がようやく出来たほどだ。チュニジアで独裁政権が崩壊したのは、WikiLeaksが政権の腐敗ぶりを暴露、それがツイッターやFACEBOOKを通じて国民の間に知れ渡り、怒りが結集して起きたものだが、そんな事をテレビや新聞がちゃんと書いているか言うまでもないだろう。WikiLeaks創設者のアサンジ氏をサイバーテロリストと呼んでいるアメリカにべったりでは、とても書ける訳がない。というより、頭がついて行っていないのが実態ではあるまいか。理解出来ないものを人間は本能的に敵と見なす。まして何か権益なり権力を抱え込んでいる程、そうした傾向は顕著になる。失う事をまず恐れるからだ。

 読売新聞のナベツネは、新人社員を前にして「インターネットなどというヤクザな物は使ってはならん」と演説ぶつのだそうだ。辛口子はあるメーカのソフトウェア研究者としてインターネットの創設期から関わる仕事をしてきたが、その当時にも社内の上層部から「インターネットなどというヤクザな物は」というフレーズが聞えて来たものだった。こういう手合いの発想というのは同じ次元で推移するものらしい。当時電電公社と言っていた現NTTは「電話線というのは音声を流すものであって、データを通すなどきつい御法度」と言い張って、音響カップラーすら繋ぐのを嫌がったものだ。その時代、電電公社が国内の通信網を一手に牛耳っていたことは改めて指摘するまでもあるまい。

 それから見れば、巷の小料理屋も広告にURLを掲載する時代がこんなに早く来るとは隔世の感があるが、それにしても全く変わろうとしない部分もまだまだあるのだと痛感する。基本的にそれらは既得権益を抱え込む文字通りのガラパゴス領域であり、メディアを駆使して国民を洗脳し、官僚と組んで改革を潰し、土建業界と組んで膨大な税金を吸い込んできているのだ。世界のどこにも既得権益はあるが、日本ほどにそれが堅固な国は珍しい。あのソ連ですら崩壊したのだから。考えてみて欲しい。テレビ、ラジオ、新聞社などの業界で、大幅な企業再編或いは新規参入があっただろうか。戦後60年、何一つ変わっていないのである。

 ツイッターで独立系のジャーナリスト達と話をしていると、実に面白い話が耳に入ってくる。その中にある大手新聞の記者にインタビューを受けたら、記者がまだカセットテープを使っていたという話があった。そういえばあの前田元検事が改竄しようとした媒体はフロッピーだった。警視庁から漏洩したテロ対策情報は一太郎で書かれていた。これは特別なケースではない。官公庁や古い既得権益内では一般的な事なのである。ナベツネなどに至っては携帯電話すら使っているか怪しいものだ。恐らく電卓あたりがせいぜいだろう。

 それを何とかしてくれ、という民意が民主党を政権に就かせた。しかし鳩山政権は既得権益からの総攻撃で撃沈し、今度の菅政権は完全に既得権益とタッグを組んだ。挙党態勢などとよくぞ抜かしたもので、現政権の顔ぶれは旧体制の覚えめでたき面々ばかりだ。今や党内でも少数派だから、内閣を改造しても新鮮味がないばかりか横滑り人事と横車人事ばかりが目立つ。党大会では異議異論を許さず質疑応答も無しにいきなり拍手で現政権支持の決を採った。党首選挙で菅を選んだのだから、従うのが本筋だと岡田は堂々と述べた(つまり論理的に説得は出来ないという意味だ)。その菅政権は古い構造にメスを入れるどころか、増税路線にまっしぐら、米軍基地も米の言うがままに沖縄に増設しようとしている。

 その基地問題。辺野古「移転」と言うがあれは移転ではない。辺野古新鋭基地の新設である。そこには滑走路の他、大型艦船が横付け出来る桟橋が設けられ、しかも弾薬庫とリンクして戦闘機にその場で装備を整えられる。無論費用は日本持ち、埋め立てなどは本土の土建屋ががっちりと利権を握り、動く金は総額数兆円とも言われる。実は普天間は住宅地のド真ん中にある為、米軍の内部規定で戦闘機などへの弾薬の装備が出来ないのだそうだ。だから元々普天間など米軍にとっては使いにくい場所だった訳で、今回の基地再編を千載一遇のチャンスと見てもっと使いやすい新鋭基地を作っているというのが辺野古「移転」の真実である。しかもそこに配備されるオスプレイの訓練用として沖縄本島北部の高江地区にヘリパッドが作られている。そこの住民の目と鼻の先である。夜中に突然、職員が大挙して押し寄せ、またたく間にゲートを作ってしまったのだという。

 こうした菅政権の旧体制路線をメディアはそのように報じていない。アメリカの言う事に全て尻尾を振るだけの前原など、まるで次期総理のような扱いをする。辺野古基地に関しては滑走路がV字になるかどうかなど、まるで基地建設を前提としているかのような記事が踊る。消費税増税はやむを得ないというお抱え評論家がせっせとコラムを投稿し、反菅内閣、小沢支持の1000人以上のデモが六本木を練り歩いても一行たりとも報じない。著作権をぎゃあぎゃあ言う一方で、独立系メディアがネットで公開した映像情報などは平気な顔で無断使用する。恐らく最高裁の判決は、こうした実態が海外に洩れるのを防ごうとする意味もあったのではあるまいかと勘ぐりたくもならないか?


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